佐賀県
地域 九州
都道府県 佐賀県
道の駅名称  桃山天下市
   (ももやまてんかいち)
住所  佐賀県唐津市鎮西町名護屋1859
電話番号  0955-51-1051
No.  佐4
MAPコード  182690032

■初めての訪問日 2007-2-11
■地図リンク 地図を表示します
■関連リンク先 道の駅桃山天下市
道の駅桃山天下市(ぐるなび)
名護屋城跡
呼子NET

次に向かったのは佐賀県最北部に位置する
道の駅桃山天下市 です。





ここは東松浦半島の北端にあり、周辺にはいくつもの観光名所があります。
付近を拡大した地図がこちらです。



(パンフレットより借用)


道の駅の住所は “唐津市鎮西町” ですが、すぐお隣が “呼子町” です。
呼子はイカの生き造りが旨いことで昔から有名で、わざわざ福岡から食べに行ったりしたものです。

そして海上には “七ツ釜” という玄武岩の断崖絶壁に7つのカマドを並べたような海蝕洞窟があり、呼子から遊覧船が就航しています。

その呼子町と鎮西町を結ぶ “名護屋大橋” というのがあります。









その名護屋大橋の手前に車を停めて、橋の中心付近に歩いて行って撮った写真がこれです。
あいにくの曇り空でしたが、ここからの風景がとても好きです。

一番下の写真に写っているのが “呼子大橋” です。





道の駅は名護屋大橋を渡ってほんの数分のところにあります。
この看板にもあるように、3.9km先に “波戸岬(はどみさき)” があり、300m先が “名護屋城址(なごやじょうし)” です。

波戸岬は前回来た時に行ったので今回はパスしましたが、海中展望台もある海洋レジャー基地ともいえる場所です。





道の駅にあった波戸岬の紹介ですが、恋人の聖地にもなっているのですね。


“名護屋城” は皆さんご存知と思いますが、1592年豊臣秀吉による朝鮮出兵の拠点として築かれたお城です。
この道の駅の後にちょっとだけ立ち寄ったので、後半でもう一度紹介します。

あ、それからもう一つ最近何かと話題の “九州電力玄海原子力発電所” もこのすぐ近くにあります。







さて道の駅ですが、この駐車場からの入口、何か “陣屋” のような雰囲気ですね。
石段を上がったところに道の駅の建物があります。









ここは農畜産物の直売所ですが、スタンプを探してうろうろしていたら、管理事務所から出てきたおじさんに 「どこから来たの?」 と声を掛けられました。

福岡だと答えると、「ここは6割は福岡からなんだよね!」
「いつもならこの道路に面して、徳川家康だとか、伊達正宗だとかの幟を立てているんだけど、今日は風が強いから外しているんだ」 と話してくれました。

「でもね、徳川家康の幟を見て、これは何だ?ってお客が聞くんだよ、名護屋城のことを誰も知らないんだ」
「大体、佐賀県って知名度が低くて東京や大阪の人はどこにあるかも知らないんだよ!」


おじさんは一人で嘆いて、どこかへ立ち去って行きました。

ここ名護屋城の周辺には全部で118か所の陣跡が確認されています。
その中で、徳川家康陣跡、小西行長陣跡など23カ所が特別史跡に指定されています。





さてこの道の駅、この細長い建物の裏にも物産館やレストランがあります。





これが奥への入口ですが、その前に右手に実演販売所と海産物直売所があります。





こちらが “海産物おみやげ直売所” です。







様々な海産物や加工食品が揃っていて、酒のつまみになりそうなものをいくつか買い込みました。







次は奥の物産館に入ってみます。









ここはモダンな造りで、さまざまな土産品が揃っています。

以前来た時にここで買った“イカスミのさきいか” がすごく旨かったのですが、今回は残念ながら置いてなかったので “イカスミせんべい” を代わりに買って帰りました。

物産館の奥が “桃山亭 海舟” という食事処なのですが、ちょっと高級です。







さて、道の駅をこの辺で切り上げて、ほんの300m離れた “名護屋城址” へ行ってみました。





これは駐車場からの写真ですが、奥に見えるのは “名護屋城博物館” です。







博物館は無料で前回来た時に見学しましたが、日本と朝鮮の交流の歴史を紹介するもので、当時の船を再現した巨大な模型などもありました。

さて、名護屋城址自体はこちらです。





入口に観光案内所があり、清掃協力費として100円が必要です。









かつて全国から大名衆が集結し、その城郭は大阪城に次ぐとまでいわれた名護屋城ですが、秀吉の死後 “寺沢広高” が唐津城を築城する際に名護屋城を解体し、その遺材を新城建設に用いました。

その後完全に名護屋城が破壊されるのは島原の乱以降ですが、それはキリシタンの謀反に名護屋城が利用されるのを防ぐとともに、名護屋城を破壊することによって幕府が明国や朝鮮との関係を改善する意思表示をすることが目的だったと言われています。

従ってこの城址、ご覧の通り石垣しか残っていませんが、その壮大な歴史からでしょうか、“日本100名城” の一つに選定されています。







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